荒木村重の妻と竹中半兵衛が守った幼子の正体|見殺し説の真実を徹底追跡

荒木村重の妻と竹中半兵衛が守った幼子の正体|見殺し説の真実を徹底追跡

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歴史上、荒木村重は「妻子を見殺しにして逃げた卑劣漢」として厳しく断罪されてきました。しかし、軍事史の観点からは、兵糧が尽きかけた有岡城を捨て、嫡男・村次が拠る尼崎城(大物城)や花隈城へ移り、毛利氏の援軍と連携して挟撃を試みる「後詰(ごづめ)作戦」だったとする説が有力視されています。村重自身は決して戦いを諦めておらず、城を明け渡す講和交渉の材料として城内の人間を利用する計算が働いていたとみられます。

しかし、信長の報復は村重の予想を遥かに超えていました。有岡城が開城された後、信長は降伏した将兵や婦女子に対して一切の慈悲を与えませんでした。天正7年(1579年)12月16日、京都・六条河原へ引き立てられただしをはじめとする重臣の妻女・子供ら36名が斬首され、さらに尼崎近くの七松では下級武士の妻子ら633名が焼き殺されるという空前絶後の大虐殺が実行されたのです。

処刑当日の様子を記した『信長公記』には、だしの気品あふれる最期が記録されています。粗末な小袖を着せられて引き回されながらも、取り乱すことなく静かに祈りを捧げ、辞世の句「消えのこる もくづとなれる わが身にも なほ秋風の 吹くおりぞある」を残して首を差し伸べました。その毅然とした姿は、見物していた京の民衆や警護の武士たちすら涙させたといいます。

James H. Sterling
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James H. Sterling

James Sterling reports on renewable energy developments, climate policy, ecological conservation, and green tech innovations around the globe.